展覧会―金山康喜展


  ●青の肖像  
パソコンやメールが使えて当たり前、そのうえ、仕事をする上で、人と人とのコミュニケーション能力が問われる時代、金山康喜(かなやまやすき)が生きていたら、ある種の居心地の悪さを感じるかもしれない。私とて、現代のツ―ルを使いつつも、気持ちを伝えることのぎこちなさや、もどかしさ、はがゆさを実感する。 そんな想いにならざるを得ない今、金山と彼の作品に出会えたことは、私にとって、大袈裟かもしれないが奇跡であり、安らぎである。

1926年大阪生まれ。旧制富山高校進学。美術部に属して、おもに写実的な絵を描いた。
卒業後、東京帝国大学に入学。経済学を学ぶ傍ら、油絵制作に打ち込む。猪熊弦一郎が主催していた純粋美術研究所に入塾。そこから、彼が生涯おもに描いた「ブルー」、青い色を基調に、揺れが感じられ、特徴的な、輪郭線がはじまる。

青を追求し、ほとんど、人物が見られない、静物画を描くようになる。

確かに、人の気配は、感じられない。
しかし、作品に、「青」の肖像、 金山自身の姿が投影されているかのようにも、受け取れる。
  ●具象画と抽象画を取り入れて  
 
1951年、25歳で渡仏。経済学の勉強のためという名目であった。

留学先のソルボンヌ大学では、翻訳をする傍ら、油絵制作に専心。

アンデパンダン展という展覧会に出品したり、フランス国に作品が買い上げられたり、具象画(そのまま描かれた絵)と抽象画の間で揺れ動きつつ、その微妙な混じり具合が高く評価され、若手画家として、評価を得つつあった矢先、 ‘54年、金山29歳のときに、結核にかかる。
●付き合いべたでも構わないよ…
 
サナトリウムで長期療養した金山は、1956年、30歳の頃から、また描き始める。

この時代の絵の特徴としては、「窓」や「ドア」が現れたこと。今まで、フライパン、ワインの飲みかけのビン、食べ終えたのか、終わっていないのか分からないが、あけられたブリキの缶詰、ポットといった日常品を静物画として描いた彼の絵に、窓やドアが登場したのである。

彼自身、今までの、静物画から溢れ出す豊かな詩のほかに、何か伝えたいことがあったのだろうか。寂しさや透明感を感じさせるブルーは、窓やドアのつけることで、金山にとって、大切な、何かを、乗り越えたかったのだろうか。「死」を超えたかったのか。それとも、「人間が苦手な自分自身」を、表そうとしていたのだろうか。

「人間を感じさせない」と言われる金山の絵であるが、金山は実のところ、有機的なものや、人間が苦手だったとも言われている。

彼が住んでいた日本会館では、部屋のドアごしに、人の気配が感じられると、その人の足音や声が通り過ぎるまで、金山自身は、自身の息も殺していた、と聞いている(新宿小田急美術館、副館長、成川氏談)。それほど、人間付き合いが不得手だった彼が描いたのは、静物画であった。しかし、彼の作品の前に立つと、「人間付き合い下手でも、良いじゃない」、「コミュニケーションって難しいんだよ」という声が聞こえてくるようなのだ。

ありのままの自身を受け入れつつ、描きつづけた青の肖像、金山。1958年にはダヴィット画廊と契約し、昨年なくなったビュッフェやカルズーとともに、グループ展に参加。その年、9月に帰国。ますますの活躍が期待されていた時期、1959年、6月急逝。

彼のありのままの気持ちや心象風景を描いた、作品は、透明感があり、ブルーを基調に、淡い色がまじりあい、不思議な空間を醸し出している。初期にモチーフとして描いた黒い椅子は、実にせつなく、人と人のコミュニケーションの難しさをも、表しているかのよう。人が坐るはずの椅子には、もちろん人の陰すらないのだ。

「若い、青春絵画なのです(成川氏談)」。

若さゆえの悩み、もがきを表していないようにみえて、静物を通して、伝わってくる、重さ。青はりりしくもあり、ゆっくりした時の流れをもたらし、私たちに安らぎを、届けてくれるのかもしれない。

この展覧会は2000年新宿小田急美術館にて開催。
2000年11月3日からは、富山県立近代美術館
12月22日からは、 下関市立美術館にて巡回展が開かれた。
      

関連サイト
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ホームページ

2005/3/3更新
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