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目に見えるものだけが現実か?それ以外は夢、はたまた幻想か?
ゲルハルト・リヒターは常に現実と対峙しながら、現実の中にある、または、現実の向こう側にある「何か」を探し続けてきた。
「我々がみている現実をあてにはできません。(・・中略・・)見るものすべての本当の姿は別なのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです(注)」と語るリヒターが40年近くかけ、現在も製作中の4500枚以上の写真とスケッチからなるのが「ATLASー世界地図ー」である。
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(C)Gerhard Richter,2001 |
現在、千葉県佐倉市にある川村記念美術館でこの「ATLAS」を中心に、傑作「ドィウンガーの肖像(5月20日までの展示)」や「オランジェリー」など絵画作品10点を加えた、日本初の大々的なゲルハルト・リヒター展が開催されている。
展示されている写真や新聞の切り抜きのコラージュ。あるいは作品をデザインする過程のスケッチの数々。ぼやけた薄暗い強制収容所の写真があるかと思えば、妻や子どもへの愛情があふれる光輝く写真が、セクション別にパネルの中でひしめきあう。
しかし、それらの写真、作家の情報源としての切り抜きやコラージュではない。家族愛を示した自己満足の写真でもない。単に作品をつくる過程を示したものでも、ない。
そこには人の心に普遍的に訴える「視点」がある。「ATLAS」を見ているとふんわりと旅立っている自分がそこにはいる。見る人を旅へと軽やかにいざなう。とても心地よい。
時には鳥になる。海になる。風になる。雲になる。光になる。
自分が作品に溶け込んでしまいそうだ。
苦しい。痛い。気持ちよい。嬉しい。
感情の気持ちの波ってこうしてやってくるのか。 旅が終わると、毎日、気持ちを押し殺しながら生きている自分の「現実」にふと、気づく。
これが、リヒターが見る人に与える「視点の転換」なのか。考え方や見方を変えることで何かが見えてくるかもしれない、ということをリヒターは見る人に伝えているのだろうか。
リヒターが作品をコントロールしてつくり上げているからこそ、このような現象が起こるのだろう。
写真から絵画作品にいったん目を離すと、写真が選ばれて並んでいる理由がじわりじわり迫ってくる。写真が1 枚もかけては、絵画が描かれないはずだ。
しかし、写真とはまったく違う絵画作品。似ているようで似ていない。リヒターの「視点」が絵画作品に広がっている。それはリヒターの心の中の映像たち。
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(C)Gerhard Richter,2001 |
作品「オランジェリー」は紙媒体でした見たことがなかったが、実際260×400cmのカンヴァスの前に立つと、月並みな言い方かもしれないが、吸い込まれそうになる。こっちが見ているのに、なぜか作品に見つめられているような錯覚に陥る。オランジェリーとはオレンジ栽培のための温室を意味する。画面の凹凸は光がキラキラ反射していることを示しているのか。まるで、作品が発光しているかのようだ。
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(C)Gerhard Richter,2001 |
写真をもとに描いた作品「花」。花がややぼんやりと描かれているのに対し、葉一枚一枚が丁寧にくっきりと鮮やかだ。栄養が細い葉や茎を通して「花」にいっているのを表しているかのようだ。葉に生命力を感じる。
抽象画に取り組みながら、写真をも手掛ける。写真と絵画の両方に芸術性を見いだす作家の姿が伝わってくる。
リヒターの心にある画像は、私の心にある思い出や映像に話しかける。 「見ているものと現実はまったく違う。そして芸術は常に動き続けていくもの、変わっていくものかもしれない」と。大切なのは常に見つめ続けること。
「現実、夢、幻影、幻想・・・実は境目は決められない」。
作家はそれらの接点を作品に描きながら、作家自身、世界、そして見る人に常に語り続けていくだろう。写真と絵画を融合せずに芸術の可能性を信じて、自ら新境地を開こうとするリヒター。
世界地図はとどまるところをしらない。
なお、リヒター展以外には、常設展として近代から現代にいたるまでの作品が展示されており、美術史の流れが分かるようになっている。
その中にはリヒターが崇拝したポロックやヴォルスがある。そして、昨年展覧会を開いたトーマス・シュトゥルートが映した「リヒター」は必見!リヒターも敬愛するニューマンの「アンナの光」も十分に堪能してほしい。
※ゲルハルト・リヒター略歴
1932年ドレスデン(旧東ドイツ)生まれ。1948-51年まで舞台用・広告看板用絵画を手掛ける。1997年までカッセルのドグメンタに出品。1997年第47回ヴェネツア・ビエンビナーレで金獅子賞受賞。同年、高松宮殿下記念世界文化賞受賞。
(注)ペーター・ザーガーによるインタヴューより、1972年。
『ATLAS』カタログ「ゲルハルト・リヒターの言葉」より引用。 |
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